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第五話 凍てつく声

Author: 白蛇
last update publish date: 2026-07-05 19:02:26

 あの夜から週に一、二度、理玖りくは宣言通りにクラブへ姿を現し、必ず凜りんを本指名するようになった。

 そのたびに凜は、張り詰めた糸の上を歩かされているようだった。

 冷たい視線。短い返事。口内に残るアルコールの匂い。接客が終わる頃には、笑顔を作るための力さえ残っていない。

 鉛のように重い足を引きずって控え室に戻るたび、鏡に映る自分の顔から少しずつ色が失われていく気がした。

 そんな凜の暗い顔を見て、鏡の前で熱心にメイクを直していた玲奈が、鏡越しに冷ややかな視線を投げかけた。

「いくら太客捕まえたからって、そんな死にそうな顔して接客されたら店全体の迷惑なんだけど」

 玲奈は口紅を引いていた手を止めながら話す。手にしたルージュが控室の照明を反射して、鈍い光を返していた。

「太客なんて言ったって、どうせすぐ他の女に目移りして、そっちに貢みつぎ始めるんだから。店長は喜んでるみたいだけど、その人だっていつまで通ってくれるか分からないわよ……」

 その声には疲れが滲んで、わずかに間延びしている。

「……しんどいなら、さっさと店長に言って、NG出しちゃえば? そしたら、私が代わってあげる」

 玲奈の言葉は、どこか以前の暖かさが戻ってきている気がした。

――良かった、いつもの玲奈だ。

「……ううん、大丈夫。ありがとう」

 凜は力なく頭を振った。

――きっとこれは、八年前の罰なんだ。だから、どんなことがあっても、受け入れないと……。

 自分にそう言い聞かせ、爪が手のひらに食い込むほど強く拳を握り締め、控室のドアを開ける。

「……八つ当たりして、ごめん」

 部屋を出る直前、ほんの小さく、玲奈の声が落ちた。

 凜が振り返っても、玲奈は素知らぬ振りをしてスマートフォンを弄いじっている。

 けれど、その指先はわずかに震えているように見えた。

 凜はほんの小さく、「うん」とだけ返して部屋を出た。

 手のひらに、東京へ逃げてきた日の彼女の温もりが蘇る。それをそっと包み込み、ピンヒールを鳴らして歩き出した。

 一方、これまでホールスタッフとして雑用をこなしていた人間が、いきなりVIPの太客を捕まえたことに対して、店長は手放しで喜んでいた。

 どうせなら他の日もキャストとして接客しないかと背中を押され、給与アップに加え、歩合ぶあい追加の打診だしんも相まって、凜は慣れないドレスに袖を通すことも多くなった。

「お前もすっかり綺麗きれいになったな。そろそろ、イケメンな彼氏とか捕まえちゃうんじゃない?」

 店長からのそんな的外れな冷やかしにも、連日の心労と睡眠不足に削られている凜は、ただ曖昧あいまいに微笑ほほえんでやり過ごすことしかできなかった。

 この日、凜は玲奈のヘルプとして二人客の卓に付いていた。

 色鮮やかなドレスを纏った玲奈は、手慣れた動作で客のグラスに酒を注ぎながらも、客の顔色を伺う。

「ねえ社長。この子、この間までホールスタッフだったんだけど、キャストに大抜擢されたの。でも、まだまだ新人だからお手柔らかにお願いしますね?」

 その声音は、先程までの疲れなど微塵も感じさせない明るさだった。

「ガハハ、元裏方さんか! そりゃあこれからに期待だねぇ。おい、凜ちゃん、俺の酒も作ってくれよ」

 年輩の客が顔を赤くして、下卑た笑みを浮かべながらグラスを差し出してくる。

 ちくりと胸が痛む。けれど、凜は表情を崩さなかった。

――ここでなんとか生きていかなきゃ……。今のうちには、この仕事しかないんやから。じゃないと、お父さんの治療費が……。

 凜は一つ息を吐いて、胸の奥に湧き出した弱音を振り払う。

 これから接客が増えるのであれば、自分を気にかけてくれた玲奈から、盗める技術は全て盗むべきだ。

 客を不快にさせず、卓全体を瞬時に自分の空気に染め上げていく玲奈の手腕。

 ただ媚びるのではない。彼女の視線の振り方、客のグラスを遮らない指先の美しさ。近すぎず、けれど確実に熱を伝える絶妙な距離感。

 凜はそれらを網膜に焼き付けるように見つめ、必死に自分のものにしようと食らいついた。

 差し出されたグラスに、玲奈の動きを真似て、丁寧にウイスキーを注ぐ。

 幸い、今日の相手は夜の店に慣れていそうな年輩の客だ。

 凜の拙い手つきすらとして受け入れてくれる余裕がある。

――試しに一度、玲奈のあしらい方を実践してみよう。

 そう思った凜は、男が放ったくだらない冗談に合わせて、いつもよりワントーン高い声を立てて笑ってみせた。

 そして男の視線が自分に向いた瞬間、どきりと跳ねる心臓を押し殺して、そっと相手の仕立ての良いスーツの袖口に、掠かするほどさりげなく指先を添そえた。

 男の目元が、更にだらしなく緩む。

「――へえ。ずいぶん楽しそうだな」

 不意に、背後から振ってきた理玖の絶対零度の声が、凜の全身の血を凍らせた。

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