LOGIN あの夜から週に一、二度、
そのたびに凜は、張り詰めた糸の上を歩かされているようだった。
冷たい視線。短い返事。口内に残るアルコールの匂い。接客が終わる頃には、笑顔を作るための力さえ残っていない。鉛のように重い足を引きずって控え室に戻るたび、鏡に映る自分の顔から少しずつ色が失われていく気がした。
そんな凜の暗い顔を見て、鏡の前で熱心にメイクを直していた玲奈が、鏡越しに冷ややかな視線を投げかけた。
「いくら太客捕まえたからって、そんな死にそうな顔して接客されたら店全体の迷惑なんだけど」 玲奈は口紅を引いていた手を止めながら話す。手にしたルージュが控室の照明を反射して、鈍い光を返していた。「太客なんて言ったって、どうせすぐ他の女に目移りして、そっちに
その声には疲れが滲んで、わずかに間延びしている。
「……しんどいなら、さっさと店長に言って、NG出しちゃえば? そしたら、私が代わってあげる」
玲奈の言葉は、どこか以前の暖かさが戻ってきている気がした。――良かった、いつもの玲奈だ。
「……ううん、大丈夫。ありがとう」 凜は力なく頭を振った。――きっとこれは、八年前の罰なんだ。だから、どんなことがあっても、受け入れないと……。
自分にそう言い聞かせ、爪が手のひらに食い込むほど強く拳を握り締め、控室のドアを開ける。「……八つ当たりして、ごめん」
部屋を出る直前、ほんの小さく、玲奈の声が落ちた。 凜が振り返っても、玲奈は素知らぬ振りをしてスマートフォンを凜はほんの小さく、「うん」とだけ返して部屋を出た。
手のひらに、東京へ逃げてきた日の彼女の温もりが蘇る。それをそっと包み込み、ピンヒールを鳴らして歩き出した。一方、これまでホールスタッフとして雑用をこなしていた人間が、いきなりVIPの太客を捕まえたことに対して、店長は手放しで喜んでいた。
どうせなら他の日もキャストとして接客しないかと背中を押され、給与アップに加え、「お前もすっかり
この日、凜は玲奈のヘルプとして二人客の卓に付いていた。
色鮮やかなドレスを纏った玲奈は、手慣れた動作で客のグラスに酒を注ぎながらも、客の顔色を伺う。「ねえ社長。この子、この間までホールスタッフだったんだけど、キャストに大抜擢されたの。でも、まだまだ新人だからお手柔らかにお願いしますね?」
その声音は、先程までの疲れなど微塵も感じさせない明るさだった。「ガハハ、元裏方さんか! そりゃあこれからに期待だねぇ。おい、凜ちゃん、俺の酒も作ってくれよ」
年輩の客が顔を赤くして、下卑た笑みを浮かべながらグラスを差し出してくる。ちくりと胸が痛む。けれど、凜は表情を崩さなかった。
――ここでなんとか生きていかなきゃ……。今のうちには、この仕事しかないんやから。じゃないと、お父さんの治療費が……。凜は一つ息を吐いて、胸の奥に湧き出した弱音を振り払う。
これから接客が増えるのであれば、自分を気にかけてくれた玲奈から、盗める技術は全て盗むべきだ。客を不快にさせず、卓全体を瞬時に自分の空気に染め上げていく玲奈の手腕。
ただ媚びるのではない。彼女の視線の振り方、客のグラスを遮らない指先の美しさ。近すぎず、けれど確実に熱を伝える絶妙な距離感。 凜はそれらを網膜に焼き付けるように見つめ、必死に自分のものにしようと食らいついた。差し出されたグラスに、玲奈の動きを真似て、丁寧にウイスキーを注ぐ。
幸い、今日の相手は夜の店に慣れていそうな年輩の客だ。 凜の拙い手つきすらとして受け入れてくれる余裕がある。――試しに一度、玲奈のあしらい方を実践してみよう。
そう思った凜は、男が放ったくだらない冗談に合わせて、いつもよりワントーン高い声を立てて笑ってみせた。 そして男の視線が自分に向いた瞬間、どきりと跳ねる心臓を押し殺して、そっと相手の仕立ての良いスーツの袖口に、「――へえ。ずいぶん楽しそうだな」
不意に、背後から振ってきた理玖の絶対零度の声が、凜の全身の血を凍らせた。理玖から返信が来たのは、日が傾き始めた頃だった。 スマートフォンの通知音に、縋り付くようにして画面を開く。『遅くなってすまん。今こっちでも確認した』『投稿に付いてるコメントも見たが、特定に繋がるような情報は出てない』 理玖の言葉に、ほっと息を吐く。『でも、知ってるって』 すぐに返信が来た。『今のところ、本人から追加の情報を出してる様子もない。ただのはったりだろう』『けど、もしかしたら大雅かも』 既読は付いたが、なかなか返事は返ってこなかった。『ないとは言えない。だが、これだけじゃ発信者情報の開示請求は通らない』『じゃあ……』『アカウントはこっちでも監視しておくが、何か動きがないと特定のしようもない』「そう、なんや……」 数分が経って、理玖からもう一通メッセージが届いた。『できるだけ早く帰る』『無理しなくていい』と返そうとして、代わりに送ったのは『待ってる』の四文字だった。 冷蔵庫を開いて、食材の残りが少ないことに気付く。 このまま部屋にいても、さっきの投稿のことばかり考えてしまいそうだった。 凜は気分転換も兼ねて、スーパーへ向かうことにした。 何か手間のかかるものを。 メニューを考えながら精肉コーナーに差し掛かる。――せや、ハンバーグとか好きやったはず。 そう思い立ち、牛挽肉のパックを手に取った。 調味料と野菜も買い揃えて帰路に着く。 マンションに帰り、早速調理に取り掛かった。 玉ねぎを切り刻み、飴色に炒める。 牛挽肉を冷やしながら練り、粗熱を取った玉ねぎを混ぜ入れる。牛乳とパン粉、調味料を加えると、香辛料の香りがふわりと立ち上った。 出来上がったタネを冷蔵庫に仕舞う。 後は玖から連絡が来てから、形を整えて焼くだけだ。 二人分とは言え、思っていたよりも早く
定食屋のランチタイムが終わった後。 凜は着替えを終えて、何気なくニュースサイトを開いた。 IT関連タグを開くと、白川のシステム障害に関する記事がまだいくつも並んでいる。『白川ホールディングス、システムの安定稼働を確認』 トップに表示されている見出しを読んで、ほっと息を吐く。 記事の内容に目を通す。 朝、理玖から聞いた通り、白川のシステムはもう復旧しているようだった。 けれど、山下という名前はどこにもない。 ブラウザバックしようとして、関連記事のタイトルに目が留まる。『KWS、障害対応を巡る批判続く』『相次ぐ契約見直し 信頼回復には時間か』 理玖が『白川の件が落ち着いたからって、全部解決したわけじゃない』と言っていたことを思い出す。 記事を開こうとして、やめた。――うちが読んでも、何もできへんし。 スマートフォンを鞄にしまう。 その時、短い通知音が鳴った。『バイト終わったか? お疲れ。それと、やっぱり今日は遅くなる』 理玖からだった。 理玖の方が、ずっと疲れているはずなのに。 それでも『お疲れ』の三文字が嬉しくて、凜の口元は自然と緩んだ。『分かった。無理せんといてね』 最近、同じメッセージばかり送ってる気がする。 他に何か送ろうかと少し考えて、結局いつもの言葉を付け足した。『帰ってくるの、待ってる』 送信。 画面に並んだ文字を見返しながら、凜は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じる。「……さん」 更衣室の扉の向こうから声がした。 スマートフォンから顔を上げる。「白鳥さん。賄いの準備できてるよ」「あ、すぐ行きます」 凜は慌てて荷物を纏め、更衣室を出た。「白鳥さん、最近疲れてない?」 賄いを食べていると、さっきのスタッフが尋ねてきた。
カーテンの隙間から差し込む光に、凜はゆっくりと目を開けた。 見慣れた寝室。 身体にはまだ、昨夜の温もりがわずかに残っている。 耳を澄ますと、隣から寝息が小さく聞こえてくる。 視線を横へ向けた。 理玖が安らかな表情で眠っている。「……凜」 理玖がぼそりと零した寝言に、昨夜の記憶が蘇る。 触れた唇。 抱き締められた身体。 そして――。『……もう終わり?』――っ! 凜は毛布を引き上げて包まった。――うち、何言ってんの……。 思い出しただけで耳まで熱くなる。 昨夜は何かを考える余裕なんてなかった。 けれど朝になってみると、恥ずかしいことばかりを次々と思い出してしまう。 毛布から目だけを覗かせて、理玖を見る。 まだ眠っているらしい。「……よかった」 胸を撫で下ろした瞬間。「何がよかったんだ?」「えっ!?」 理玖が目を開けた。「起きてたん!?」「お前の声で起きた」「嘘や」「何でだよ」「絶対起きてたやん」「朝から元気だな」 理玖が笑う。「だって、理玖があんなことするから」「俺だけのせいか?」「……知らん」 凜はまた毛布の中へ潜り込んだ。 しばらくすると、毛布の上から頭を軽く撫でられる。「苦しくないのか?」「大丈夫」「そうか」「ねえ、理玖」「ん?」「昨日のこと」 そこまで言って、続きが出てこない。「昨日のことが何だ?」「……うち、一生忘れんと思う」 本当に言いたかったこ
――それでも、凜の身体は理玖の体温を、まだ覚えていた。 触れたままの膝から、じわじわと熱が伝わってくる。「凜、膝当たってる」 低い声が、すぐ近くで響く。――早く離れなきゃ。 そう思うのに、身体は言うことを聞かない。「俺が離れろって?」 呆れたような、それでいて少しからかうような声。 理玖のパジャマを摑む指先に力が籠もる。「……そうやないけど」「あのな、俺も男なんだぞ」「えっ」 理玖の言葉に顔を上げた。 理玖の真っ直ぐな視線とぶつかった。 捕らえられてしまったかのように、目を離すことができない。「……そんな顔で近付かれたら、勘違いするぞ」「な、何を……?」 理玖が一度大きく息を吐いた。「……何でもない」 理玖が視線を逸らし、寝返りを打とうとした。 その瞬間、凜の指が勝手に動いた。 摑んでいたパジャマを、さらに強く握る。「凜?」 言うなら今だって分かってる。――分かってる、けど。「もうちょっとだけ、こうしてたい」 絞り出した言葉は、本当に伝えたいものではなかった。 理玖の気配を感じていたいのに、自分の心臓の鼓動がうるさいほど邪魔をする。「分かった」 理玖が再び凜に向き直る。 さっきよりも、互いの呼吸が近くなった。「最初に言ったこと、覚えてるか?」「最初って?」「俺が求めた時、お前には拒否する権利はない。……そう言っただろ」 契約を結んだ時、いくつもの条件を突き付けられた。 その中に、確かにそんな約束もあった。 けれど理玖は、その条件を理由に一度も凜を求めてきたことはなかった。「……う
「凜?」「……なに?」「行かないのか?」 一瞬、息が止まった。 理玖は不思議そうにこちらを見ている。 もしかしたら、深い意味なんてなかったのかもしれない。――何一人で盛り上がってるんやろ、うち。 頬が熱くなる。「……行くよ」 毛布を畳んでソファに置き、立ち上がる。 俯き気味に理玖の横を通り過ぎようとしたところで、彼の手が額に伸びてきた。「もしかして、また体調悪いのか?」「そんなことないけど」「顔赤いぞ」 図星を指され、ますます頬が熱を持つ。「べ、別に、なってないけど」「なってる」「お風呂上がりの理玖が暑いせいちゃう?」「俺のせいかよ」 呆れたように笑う。 その表情が凜の胸の奥をくすぐった。 ほんの少し前まで、理玖とこんなふうに笑い合える日が来るなんて、想像すらしていなかった。 それなのに。 たった三日、まともに顔を合わせなかっただけで。 連絡は来る。 同じ家で暮らしていることに変わりはない。 それでも、声を聞くことも、笑顔を見ることも減った。 当たり前になりかけていたものが、ほんの数日離れただけでこんなに恋しくなるなんて思わなかった。 寝室に入り、理玖がベッドへ潜り込む。 いつもなら眠る時も外さないネックレスに、凜は指をかけた。 一瞬迷ってから外し、サイドテーブルの引き出しにそっと仕舞う。――別に、何かを期待してるわけやない。これはただ、寝るのに邪魔だから。 首筋の軽さに落ち着かないながらも、そう自分に言い聞かせる。 理玖から少し距離を空け、ベッドの端に浅く腰掛ける。 二人分の体重を受けたマットレスが小さく軋んだ。「どうした? 寝ないのか?」「……うん」「やっぱり
理玖とまともに顔を合わせなくなって、三日が経った。 朝起きると、理玖はもういない。 夜も凜が眠る時間になっても帰ってこない日が続いた。 それでも、以前とは違う。『昼飯は食堂のうどん』『今日も遅くなる』『会社に泊まる。先に寝てろ』 短いながらも、こまめに連絡は来た。 凜も、『分かった』『無理せんといてね』 そう返す。 指先で理玖からのメッセージをそっとなぞる。 たった数行のやり取りなのに、以前よりずっと近くに感じられた。 それでも。 広い部屋で一人きりになると、やけに静かだった。 スーパーでタイムセールになっていた惣菜を食べ終え、ソファに座ってスマートフォンを眺める。 午後八時を少し回ったばかり。 理玖からのメッセージはまだなかった。――今日も遅いんかな。 そう思った時。 玄関から鍵の解錠音が響いた。 凜は顔を上げる。――え? 聞き間違いかと思ったが、入り込んできたぬるい外気が頬を撫でた。 続いて、理玖の「ただいま」という声。 ソファから立ち上がり、足早に玄関へ向かう。「おかえり」「すまん、スマホの電源切れた」「今日は早かったんやね」「ようやく、一段落ついた」 理玖が靴を脱ごうとして、一歩蹌踉めいた。「理玖!?」 咄嗟に彼の腕を摑む。「ちょっとふらついただけだ。大丈夫」 そう言う理玖の目には、深い隈が刻まれている。「せやけど、休んだほうがええよ」 理玖の手を引いたままリビングのソファに座らせる。 脱いだスーツのジャケットを預かる。 汗に混じった、どこか懐かしい匂いが鼻を掠めた。 ジャケットをハンガーにかけ、キッチンで理玖のマグカップに麦茶を注ぐ。 ローテーブルに置くと、理玖は喉を鳴







